名胡桃城(なぐるみじょう)の築城時期は、この地を治める沼田氏の一族である名胡桃景冬が明応元(1492)年に名胡桃館として築いたといわれている。
戦国時代になって天正7(1597)年ごろ武田勝頼の命により真田昌幸が吾妻の岩櫃城、利根の名胡桃城を始め山城や砦を攻略し天正8年に後北条氏の沼田城を調略した。
しかし、沼田城をめぐっては真田氏と北条氏がその占有を巡って争っていた。
このため、豊臣秀吉は、赤谷川の左岸を北条領、西(名胡桃城)を真田領とする裁定を天正17(1589)年に下したが、北条氏の沼田城代の猪俣邦憲が調略により名胡桃城を不法に占拠してしまった。
秀吉の「沼田裁定」を破った北条氏に対して、大名間の私闘を禁じた惣無事令に反したとして、秀吉は小田原征伐に乗り出すキッカケの一つとなったという。
天正18(1590)年に北条氏は敗れ、沼田は真田氏の所領となったが、その役割を終え廃城となってしまった。
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