爺さんぽ/城を訪ねて三千里(新府城) .
城を訪ねて、てくてく旅

山梨県・韮崎市)
 


七里岩と呼ばれる台地にある新府城。
新府藤武神社の御祭神は武田勝頼公

新府城は、武田勝頼が天正9(1581)年に築城したもの。
 城は七里岩と呼ばれる台地(標高約524m)にあり、西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成されている。西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(富士見町)まで約30km続いている。

天正 3(1575)年 5月21日、武田勝頼は織田・徳川連合軍と長篠で戦い、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊など多くの重鎮を失ってしまった。この敗北によって弱体化した武田家は捲土重来を期して、天正9(1581)年12月24日に躑躅ケ崎から防御力の高い新府へと拠点を移した。
しかし、天正10(1582)年3月3日、織田信長・徳川家康・北条氏政の侵攻を受けたことで、勝頼は自ら城に火を放ち退去したが、途中、家臣の裏切りにあい、少数の手勢と共に天目山を目指した。3月11日にもはやこれまでと悟った勝頼は、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡してしまった。




武田勝頼公供養碑






新府城縄張り図
新府城は、七里岩と呼ばれる台地の上にその地形を活かして築かれていました。この城は、出構や丸馬出、枡形を備えた大規模な城で、武田流築城術の集大成ともいわれています



お城への下車駅・新府駅

新府駅とお世話になったパトカー

新府駅は無人駅でした。下車して階段を下りて歩き始めたら、パトカーが走ってきたので、思わず手を挙げてしまいました。
「新府城へ行きたいのだが、どっちへ行けばよいのか?案内板もないし」と話すと、人のよさそうな若いお巡りさん三人がすぐに下りてきて、私を取り囲むようにして話を聞いてくれました。あっという間に取り囲まれたので不審者に見えたのかなぁと、思いつつ・・・・。
分厚い地図帳を出してくれて、行くべき方向を指さして丁寧に教えてくれました。
とりあえず歩きだすと、途中、道が工事で遮断されており、カンバンの指定通り大きく迂回してようやく新府城入口へとたどり着きました。



しばらく歩くとようやく案内板が出てきた

ここは柿の名産地?


新府城跡


東の大手側下からの登山道を上ると丸馬出と大手門跡に着く


丸馬出
武田氏の築城した城の特徴ともいわれる半円形の土塁

丸馬出の下は三日月堀となっている



丸馬出からの大手門跡

大手門内側


大手門内側からの富士山
勝頼もこの風景を眺めていたのだろうか?

大手門からの富士山


二の丸跡


馬出跡


本丸跡


本丸跡


本丸北側の土塁沿いにある武田勝頼の霊社と武田14将霊碑
武田14将:五味高重(五味貞氏)、小山田昌輝、真田昌輝、真田信綱、春日信澄(高坂昌澄)、山県昌景、馬場信春、武田信実、原昌胤、内藤昌秀、香坂助宣(高坂助宣)、土屋昌続、甘利信康、横田康景



武田勝頼公零社



本丸にある巨石

長篠の戦で敗北し戦死した兵の供養塔


本丸北側からの茅ヶ岳(標高1,704m)
本丸跡から臨む茅ケ岳。恐らく武田勝頼もこの山を見ていていたのだろう。
「日本百名山」で有名な作家・登山家の深田久弥(ふかだきゅうや)さんが登山中に亡くなった山として知られています。


新府藤武神社

 新府藤武神社は新府城築城の際、稲荷曲輪に城の守護神として祀られました。落城とともに焼失した神社を徳川家康が再建したといわれています。 


新府城登城口
新府藤武神社の鳥居


長い階段の参道

新府藤武神社は稲荷曲輪に城の守護神として祀られました。


能舞台もある

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