沼田城天守復元予想図
五層の天守閣は真田信之によって慶長年間(1596〜1614)に建造したと伝えられている
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標高約400mの河岸段丘の上にある沼田城は、鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏の12代沼田顕泰 (ぬまた あきやす)が享禄5年/ 天文元(1532)年に築城した。
そして、それまでの居城・幕岩城 から沼田城に居を移した。
永禄元(1558)年に、沼田氏家中で後北条氏派と反北条派(上杉憲政派)による内紛があり、これを機に越後の上杉氏や小田原の後北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名によりめまぐるしい争奪が繰りひろげられることになった。
天正7(1579)年9月に武田勝頼の命により真田昌幸は、北条氏政の所領であった沼田領へ侵攻し、沼田氏(北条康元)を滅亡させた。
その結果、北条氏と真田氏との間に沼田城をめぐっての領土紛争が勃発した。これを豊臣秀吉が仲裁したが、この沼田領裁定の一部について、北条氏が武力で履行を覆したことで、豊臣政権の大名間の私闘を禁じた惣無事令(そうぶじれい)違反とされ、秀吉による小田原攻めにあい北条氏は滅亡してしまうことになった。
秀吉は真田昌幸に対し信濃2郡と利根・吾妻の旧領を安堵し、天正18(1590)年に昌幸の嫡子信之が沼田城城主となった。
元和8(1622)年に信之は4万石加増のうえ松代藩へ転封となり、その際に沼田領3万石を長男信吉に分与し支藩の沼田藩が立藩された。
天和元(1681)年に、5代藩主・真田信利の時に、江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由に改易され、領地を没収され元禄16(1703)年まで沼田領は天領となった。
その後、本多氏が入封し三の丸に屋形を建て、次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治の版籍奉還により取り壊しとなった。
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