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大多喜城は、大永元(1521)年に真里谷(まりやつ)信清が小田喜城として築城したというのがその始まりとされる。
天文13(1544)年に、真里谷氏は里見氏家臣・正木時茂に敗れ、上総国東部の支配は正木氏が支配することになった。
天正18(1590)年、北条氏の後ろ盾があった里見氏だったが豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡した結果、里見家の内紛(惣無事(そうぶじ)令違反)を理由に領地が没収されてしまった。
秀吉による徳川家康の関東移封に伴い、家康は下総の守りに徳川四天王といわれた本田忠勝を大多喜藩藩主(10万石)に送り込んだ。
そして、忠勝は、城を3層4階の天守をの持つ近世城郭へと大改築を行った。
その後、阿部正次が大多喜藩藩主となったが、元和5(1619)年9月、正次は小田原藩に国替えとなり、大多喜藩は一時的に廃藩となった。
また、天保13(1842)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15(1844)年8月に建てられていたと考えられている。
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